第9番交響曲といえば、年末の演奏会を思い浮かべますよね?
コンサートを見ると、もうこんな時期なのかって思うな。
実は日本ではじめて第9番交響曲が演奏されたのは、徳島県の「板東俘虜(ふりょ)収容所」という場所なんです。
板東俘虜収容所は
- 日本で初めて演奏された第9番交響曲
- 捕虜の人権が固く守られていた
- ドイツと日本の交流のトリガーになった
戦争中に捕虜の生活が一番に守られた、貴重な場所でした。
当時の収容所の様子も興味深いものばかり!
第9交響曲が好きな人には知ってもらいたいエピソードです。
当時の時代背景
第一次世界大戦中の1914年、日本は「青島(チンタオ)の戦い」に参加します。
↓↓
ドイツ軍が敗北、兵を捕虜として日本へ連行。
しかし捕虜を収容する施設が足りなくなり、収容所の環境・捕虜への待遇も悪い方向へ。
捕虜の保護に関する条約(ジュネーヴ条約)も、当時の日本ではまだ理解されていませんでした。
当時の日本人の価値観に合わなかったので浸透しづらかったのでしょう。
とは言っても戦争が長期化するとなれば、ちゃんとした収容所が必要になってきます。
青島の戦いから3年後、本格的で広大な「板東俘虜収容所」が開設しました。
オンリーワンの収容所
収容所の所長は松江豊寿という人。
会津に生まれ、鳥羽・伏見の戦いで敗北した経験があります。
その経験からこう↓↓考えるように。
収容所の初日、松江豊寿は捕虜に
「国のために戦った貴方たちを歓迎する」
とスピーチしました。
これまで散々な扱いを受けていたドイツ兵はとてもびっくりしますが、その後もっとびっくりすることになります。
これまでの生活とは真反対の、自由な暮らしが待っていたのですから。
ドイツさんと地元民の交流
収容所でも母国と変わらない生活を送れるように、松江はいろいろな気配りをしていました。
ドイツの事はドイツ人の方がわかるからと、収容所での決め事などはほぼ任せていたそうですよ。
自分の技術で生計を立てたり、帰国した時の為に勉強を頑張ったりと自由な生活が出来るように。
お店や娯楽施設も増えていき、収容所内はだんだん活気付いていきます。印刷所にパン屋さん、レストラン、酒場からボーリング場と大充実のラインナップ。
所長が借りた土地で鳥や豚を育てて、ソーセージを作ったりもしていました。
松江所長のお家にも、ソーセージなどのおすそ分けがあったんですよ。
地元の学生たちとの交流も盛んで、西洋の体操やクラシック音楽を教わります。
収容所の人たちは外出を規制されることなく、地元の人たちからは「ドイツさん」と呼ばれて交流を存分に楽しんでいました。
鳴門で平和を歌おう
居心地が良くてもアウェーな土地では、音楽は欠かせないものです。
新たに収容所に来た人達を「プロイセン行進曲」で出迎えたり、当時のドイツ人にとっての心の支え。
特に母国で作られた「ベートーヴェン・交響曲第9番」は、ドイツ人にとって思い入れのある楽曲です。
音楽は心細い時の支えにもなるよね。
しかし演奏の実現は大変でした。
日本では手に入らない楽器を使っていたり、合唱部分に女声パートがあったり…。
そこで楽器を自作したり、作れないものは別の楽器を使うことにしました。
合唱も男性のみで歌えるように再編成。
仕事の合間を縫って練習すること2ヶ月。
1918年6月、
ドイツ人捕虜が建てた集会場で演奏会が催されました。
合唱部分の日本語訳↓
歓び、あなたはきらめく楽園の乙女
我らは体中を熱い炎で満たし天上の神殿へ向かおうあなたの不思議な力は
時の流れが引き裂くものを再び結ぶ「あなたの優しい翼に抱かれて
全てのものは兄弟になる」
ドイツ人捕虜の、そして世界中の人達の想いが鳴り響いた瞬間。
そしてこれが、日本で初めての「ベートーヴェン・第9番交響曲」の演奏になりました。
鳴門とドイツの交流ふたたび
演奏会が開かれた同年に第一次世界大戦は終わります。
収容所は閉鎖され、元ドイツ兵は自由の身になりました。
ドイツの人たちは、収容所を懐かしく思い「バンドー会」という集まりを作ります。
そして時は経ち第二次世界大戦後。
収容所跡の住宅地に住んでいた高橋春枝さんがたまたまドイツ兵の慰霊碑を発見、親子2代にわたって供養を続けます。
その活動が地元の新聞に載り、ドイツ大使の耳に。
→40年の時を超えて交流が再開!!
ドイツの人も嬉しかっただろうな。
「バンドー会」からの助けもあり、当時の収容所の様子を展示した「鳴門市ドイツ館」が建てられます。
そして収容所での演奏からぴったり100年後。
2018年の同じ日・同じ時間に
鳴門市ドイツ館の前で、男声合唱の「ベートーヴェン・第9番交響曲」が再奏されたのです。
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まとめ
今回は、日本ではじめて第9番交響曲が演奏された「板東俘虜収容所」を紹介しました。
- 松江豊寿の計らいで捕虜がのびのびと生活していた
- 日本で初めて「第9番交響曲」が演奏された
- 日本とドイツとの交流が始まるトリガーになった
鳴門市とドイツのリューネブルク市は、友好都市として現在も交流が続いています。
当時の人たちに思いを馳せながら曲を聴いてみると、いつもと違った感想が出てくるかもしれませんね。
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